忙中読書雑感さらに
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作成日時 : 2006/09/07 01:42
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仕事で江戸時代から戦後にかけての資料が必要となった。その手の資料は、私はたくさん持っている。しかし、その資料が並べてあると推測される本棚の前には、3年以上にわたって積み上げられた、雑誌や新聞の切り抜きが無造作に置かれている。これを撤去するのは容易ではない。まだ見ぬ遠方のご同輩諸氏よ。日頃から整理整頓、そして捨てる技術の習得を心がけよう。
汗だくになりながら資料を整理していると、いろいろな本が出てくるわ見つかるわ。まず『日本三代実録』。20年以上経ったが、いまだに読み終えていない。漢文だからである。さらに、ヘーゲルの『精神現象学』。河出書房版である。ぱらぱらとめくると、なんと驚くことに、線が引いてあったり書き込みがしてある。しかも、それが自分の字ではないか。その上、そのヘーゲルの有名な本の内容も、書き込みをしたことも、まったく記憶にないのである。思えば、10代20代と、やれドストエフスキーだのカントだの、三木清だのライプニッツだのという本ばかり読んでいたのが間違いではなかったのか。もっとその年代に有益な、たとえば『週刊プレイボーイ』や『メンズノンノ』や『ファイン』といった類を読んでいれば、もっと楽しい人生を送ることができたかもしれない。そういえば、雑誌も『現代詩手帖』や『ユリイカ』、『詩学』、『中央公論』、『現代の眼』、『新評』、『流動』なんてのばかり読んでいた。
そんな小難しい本や雑誌ばかりを読んで、自分が偉くなったように錯覚していたのは、ひとえに私自身が強烈なコンプレックスの固まりだったからである。それは、今も変わっていない。何とか、鬼籍に入るまでに人様に誇れるようなものを自分の内部に持ちたいものである。
自分の外になら、すでに誇れるものはある。言うまでもなく、それは家族である。物質的にも精神的にも、貧困極まりない私にもたらされた財産が家族であった。これは驚きである。
小難しい本を読み漁っていた頃には、「体験せずとも、思考だけによってあらゆるものを認識できる」などとうぬぼれていた。だが、やはり体験によって実感しなければ、どんな知識や情報も空虚で無意味だ。そのことを、小人は経験によって確認している。よって、小人の毎日は混乱と反省の連続である。だが、そもそもカントの『純粋理性批判』の最初に、「認識は経験を超えることはできない」と書かれている。もう20年以上前にその文章を読んでいながら、理解していなかったとは。やっぱり私はバカだなあ。嗚呼。
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